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[一水四見⑶] 鑑真・日本と東アジアを結ぶ汎アジアの精神的価値<村石恵照>

「打つ人も打たるる人も諸共にただひとときの夢の戯れ」 夢窓疎石

2018.6.26 村石恵照

私は、ここ数年、古代から現代にまで縁起的に連続していると考えられる日本の歴史の情念に関心をもって、飛鳥、出雲などの地にある神社仏閣を訪れている。

神社仏閣では、建造物から樹木にいたるその隅から隅まで、 自然と一体になって、実に見事に掃除が行き届いている。
日本国民に「掃除の美」の範を垂れているようだ。

訪問先の各地では、地元の人々と 、少しでも多く言葉を交わす事にしている。
どこにいっても、売店の女性、各駅の駅員、列車の車掌、タクシー運転手と、みんな親切で礼儀正しい。

これが伝統ということだろう。

 天皇の御寺(みてら)泉涌寺を9月に訪問し舎利殿の縁側にただずんで、流れる斑の雲間から仲秋の満月を仰いだこともあった。
皇室の菩提所である泉涌寺の開山は、宋で12年間修道した俊芿(しゅんじょう)律師であり、北条政子と北条泰時も彼の下で受戒している。

泉涌寺には、1230年に宋より将来された「楊貴妃観音」像が安置されている。
玄宗皇帝が寵愛した楊貴妃の冥福を祈って造像したとの伝承のある像だ。
この像は、聖徳太子から鑑真を経て連綿として伝持されてきた中国王朝と日本朝廷の外交的絆の一つの象徴だ。

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私のささやかな歴史探訪は、伝統的神社仏閣に限定されない。
天理教の教会本部の神殿にも参って、その祭壇が暗示する宇宙観に新鮮な驚きを覚えた。

宗教法人大本(おおもと)も訪れた。
綾部にある、一千年の耐用を考慮して建造された木造の神殿の300畳敷きの拝殿広間に、秋の夕刻一人佇んだ。
そこでは、伊勢神宮、出雲大社、明治神宮などとも、ましてや靖国神社とも全然違う、また仏教寺院とも違う、いわく言い難いこころの暗示を感じた。

日本の神社仏閣に漂っている、この自然と一体の伝統、この安らぎを支えてきているものはなにか。

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2016年10月、私は奈良の唐招提寺を訪問した。
中国人の観光客が静かに切れ目無く訪れていた。
律宗管長の西山長老から、鑑真和上のこと、故鄧小平が副主席の時 (1978年)唐招提寺を訪問した時の興味ある逸話などを拝聴した。

ここは、日本仏教文化の精神的礎石であり、当時世界最大の大陸文明帝国・唐王朝と列島の皇国・日本の媒介点としての聖地である。

鑑真和上は、仏教だけでなく、当時のすぐれた漢方医療、中華料理のレシピー、建築技術などを日本に伝えた。
鑑真の生きた時代は ーー群雄割拠の時代から、異民族と漢民族の対立していた南北朝の後、隋による中華帝国の統一を前段階にして豊穣な思想を開花させたーー唐代の前半にまたがる。
唐王朝の時代は、長安(現在の西安)を都に、東は遣唐使を通じて日本と交流し、西はシルクロードを通じてローマとも通商していた。

その大唐から来日した鑑真には、異国の精神的伝統を破壊するような西欧流の征服的宣教の意図は、まったくなかったし、政治に介入する意図もなかった。
鑑真は、皇帝に命じられたのでもなく、自ら発案したのでもなく、当時在唐していた日本の僧侶に乞われるままに、そして来日を決意した後は命がけで行動し、5度の渡航に失敗して6度目の渡航で失明して来日した。

当時、唐と日本との間を遣唐船が頻繁に往来していたが、日本側は中国文明の余慶を一方的に享受していた。
唐の皇帝と日本の天皇との外交的信頼関係がなければ、皇帝が、自国の政治情報と優れた技術を外国に持ち出されることに徹底した対策をとっていたはずである。

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752年4月9日、東大寺大仏殿で開眼供養が行われた。
日本列島に初来日したインド人僧・ボーディセーナ師が導師を勤めた。
しかし大伽藍は建造されたが、正式な仏教のサンガ (教団組織)は未だに成立していなかった。

753年12月20日、揚州を発って帰朝に向かう4隻の遣唐船の第三船に乗った鑑真一行は現在の鹿児島県坊津町秋目浦に漂着した。

その後、一行24名は太宰府に滞在後、船で瀬戸内海を通って難波津に翌年2月1日到着。
一行は、僧14名、尼僧3名、ソグド人(イラン系)、インドシナ出身者らを含む在家信者ら7名からなっていた。
754年4月初め、東大寺大仏殿の前に築かれた戒壇で、鑑真によって仏教徒となるための正式な授戒がおこなわれた。
最初に聖武太上天皇、ついで光明皇太后、その娘の孝謙天皇が順次、菩薩戒(在家の仏教信者のための基本的戒律)を受戒。その後、440人余が正式の受戒をした。

かくて鑑真和上の下に、男性僧、尼僧、男性在家信者、女性在家信者の四衆からなる仏教の教団組織の基礎が、天皇家の参加の下に成立した。

755年9月、大仏殿の西に正式な戒壇院が造営された。
この年、中国大陸では安禄山の反乱が起き、唐は全盛期から混乱期に入ってゆく。

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鑑真なくしては、聖徳太子が基礎を築いた仏教の和の精神の下に、仏教教団の基礎は築かれず、仏教は歴史的に日本に根付かなかっただろう。
東大寺は大伽藍のままで、やがては朽ち果てたことだろう。

もし鑑真に仏教によって日本を精神的に支配しようとする意図があれば、日本に固有の神道的なるもの、自然に対する豊かな感性は否定されていたことだろう。

最澄も空海も、夢窓疎石も東大寺で鑑真が伝えた具足戒を受戒して正式の僧となった。
先祖を後漢(劉氏)孝献帝の末孫登萬貴王にもつ最澄が比叡山延暦寺を建立しなければ、そこで修学した栄西、道元、日蓮、法然、親鸞などの鎌倉仏教の祖師たちは生まれえなかった。

飛鳥期、奈良期、平安期、鎌倉期へと発展していった仏道がなければ今日伝えられている様々な「道」としての日本文化は成立しえなかった。

日本文化の「道」とは、具体的な身体行為をもって一定の理念を不断に追求していく自己修練のシステムのことだ。

仏教が仏道として「道」の原型を与えたことにより、中華文明より与えられた素材を洗練された日本文化なるものーー茶道、香道、華道、能、剣道、歌舞伎、俳道ーーなどが生まれていった。
和食も、中華のレシピーを学んでこそ、中国大陸では得られない日本列島の豊かな清水と多様な魚貝類を素材として洗練された美味が工夫されていった。

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鑑真は具足戒を受戒した仏僧であるから、南方アジアの仏僧とも仏教的行動規範を共有している。
鑑真という人格は、インド、中国、南アジア、東アジアを包む汎アジアの精神的価値である。

今日、覇権国による分断・統治のカオス的状況下にある世界において、日本人は、みずからの歴史と西欧文明の功罪を相対的に再点検し、日本の文化価値の核心である非覇権を本質とする「和」の文化価値に目覚めなければならない。

鑑真という宗教的差別をも超えた人格を、政治と国籍を超えて、日中の両国民が学ぶことは、平和をめざすアジア人々の精神的基礎となることである。

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